多摩労働カレッジ論文審査

平成25年度東京都多摩労働カレッジ募集論文にて、奨励賞を受賞いたしました。審査における講評は、ギャラリー(フォトギャラリーの右下のフォト)で見ることができます。

4月21日(月)14:30からは、国分寺労政会館に於いて、東京都労働相談情報センターの関係者の方、成蹊大学教授の原昌登先生らの出席の中、表彰式が行われ、他の受賞者は参加されておらず、私一人のために多数の方が参列され、お褒めの言葉、拍手をいただきました。原先生からは、審査員の立場からお褒めの言葉をいただき、身に余る光栄で、恐縮いたしました。これからも、自分に負けず精進したいと思います。

以下、受賞論文を掲載いたします。

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労働者性・事業者性の考察

                  社会保険労務士 吉田 壽宏

 

 仕事をしている人が、労働者なのか、事業主なのか、この問題は非常にデリケートな問題である。たとえばトラックの運転手、声楽家など。普段働いている時はそんなことは全く意識しないであろうが、ある事案が起こった時、労働者なのか、事業主なのか、それはその方の生活に重大な影響を与える大きな問題となる。

 

 私たちの生活するこの社会においては、契約自由の原則の上に成り立っている。それは私的自治の原則から派生する原則であり、契約締結の自由・相手方選択の自由・契約内容決定の自由・契約方式の自由等を内容としている。したがって、私たちは仕事をして金銭を受ける相手方と自由に内容を決めることができる。しかし経済的弱者の保護の視点から雇用契約においては、労働基準法・労働安全衛生法等の労働法により、事業主に規制をかけていることは周知のとおりである。ゆえに労働者であれば労働法の保護を受けられるのに、事業主であればその保護を受けられない、このような問題が生じるのである。

 

 横浜南労基署長(旭紙業)事件においては、Xは、自己の所有するトラックをY社の横浜工場に持ち込み、同社の運送係の指示に従い、同社の製品の運送業務に従事していたが、事故にあった。Xは労災保険上の労働者といえるかが争われた事件である。労働者から言えば雇用関係であり、当然に労災保険の適用を受けられると主張する。事業主は労働者ではなく、Xは個人事業主であるのだから労災保険の適用はないと主張する。これは労災保険の適用だけでなく民事上の損害賠償にも重大な影響をもたらす。

 

 雇用とは「雇用は、当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって、その効力を生ずる。」とある。(民法623条)労働者の弱者保護、事業主を強く規制する刑罰法規である労働基準法では、「この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず事業又は事務所に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。」(労働基準法9条)と定義する。労災保険法(労働者災害保険保障法)は、労働基準法より独立して制定された法律であり、労働者の定義においては労働基準法と同義と考えてよいであろう。

 

裁判においては労働者か否かを個別の事象ごとに詳細に検討していくことになる。たとえば時間管理はどうだったのか、報酬の決定はどうだったのか、税・社会保険料の取り扱いはどうだったのか等、それぞれの結果が労働者性に傾くか、労働者性を否定する方向に傾くかを検討していくのだが、大きな要素として労働基準法にある「使用される者」か否か、つまり指揮命令を受けていたか否かが検討されることになる。最高裁は「Yは、運送という業務の性質上当然に必要とされる運送物品、運送先及び納入時刻の指示をしていた以外には、Xの業務の遂行に関し、特段の指揮監督を行っていたとはいえず、時間的、場所的な拘束の程度も、一般の従業員と比較してはるかに緩やかであり、XYの指揮監督の下で労務を提供していたと評価するには足りないものと言わざるを得ない。」としている。そして、使用されているか否かを考えた場合、会社(運送係)の指示を拒否する自由があったか否かが、大きな要素となると考えるが、「Xは、専属的な旭紙業の製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否する自由はなかったこと、」その余の事実関係を考慮しても、Xは、労働基準法上の労働者ということはできず、労働者災害保険法上の労働者にも該当しないものというべきである。」と結論付けている。(最1小判H8.11.28労判71414貢)

 

 私がこの判決で疑問に思うことは、「専属的な旭紙業の製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否する自由がなかったこと」を認定しているのも関わらず、労働者でないとしている点である。これは、拒否する自由がない者を、拒否する自由があるとされる事業主として結論付けているのである。

 

そして「毎日の始業時刻及び終業時刻は、右運送係の指示内容のいかんによって事実上決定されることになること、右運賃表に定められた運賃は、トラック協会が定める運賃表による運送料よりも一割五分低い額とされていたこと」を考慮しても労働者に該当しないとしている。これは、会社の指揮命令に従い、独立した運送事業者としての運送料をもらっていないにもかかわらず労働者ではない、としている点も疑問である。

 

私は、毎日の生活の糧を得るために、まじめに会社の指示通りに仕事をしていた「労働者」の気持ちを考えると、胸が痛む思いがするのである。

 

 この判決で他の大きな要素は、トラックの所有という点であろう。判決においても「Xは、業務用機材であるトラックを所有し、自己の危険と計算の下に運送業務に従事していたものである」とし、トラックを所有していたことが、労働者性を否定する方向に、事業者性を肯定する方向に傾いたのであろうと考える。もし、この事案において、トラックを所有しておらず、会社のトラックを賃貸という形式、あるいは買い上げのリース契約という形式であったらどうであったか、興味ある事案である。

 

 新国立劇場運営財団事件(東京高判H19.516労判944号52頁)では、Yとの間で出演基本契約を締結し個別公演毎に出演契約を締結していたXが、Yから基本契約を終了し更新しない通知を事案である。Xは、出演基本契約は労働契約であり、その更新拒絶は、労働基準法18条の2(現労働契約法16条)の類推適用により無効であると主張した。

 

 裁判所は「契約メンバー出演基本契約を締結しただけでは、Xは未だYに対して出演公演一覧のオペラに出演する義務を負うものではなく、また、オペラ出演の報酬を請求する具体的な権利も生じないものである」から「労働契約関係が成立しているといえないことは明らかである。」としている。

 

 この判決では「諾否の自由を有していた。」という点が大きな要素となっている。事実はどうなのか、本当に自由があったのか、一度拒否をしたらもう二度と契約をしてもらえないという気持ちがあったのではないか、と考えられるのではないかと思う。

 

私は、今までの日本の社会においては、日本中ほとんどの人が同じような認識を共有していたのではないかと思うのである。報酬を払うほうも受けるほうも、暗黙の了解があったのではないかと思う。現代は、多種多様な価値観があり、それを踏まえた場合、日本の社会も米国の社会のように、労働契約の場において、考えられる多様なケースを想定して契約を結ぶ必要がでてくるのではないかと思うのである。

 

 

参考文献

平成25年度東京都多摩労働カレッジ専門講座 労働判例コース サブテキスト①第1回 雇用関係法 早稲田大学教授 

島田 陽一氏