スポーツ観戦につき想う事 

 

 私の楽しみの1つにスポーツ観戦がある。野球もサッカーもゴルフも、その他大抵のスポーツを楽しく観戦する。これは理屈抜きで楽しいし面白い。大きな大会であれば熱狂してしまう。小学校の頃は巨人が大好きで巨人が負けるとひどく落ち込んだものだ。私は特に王さんが好きだった。不言実行、ここで打ってほしいと思う場面でホームランを打つ、これは本当に本当にスゴイことだ。1試合で4打席連続ホームランということもあったと思う。また、格闘技も面白い。これはオスの本能か。小学校の頃プロレスも好きで、私は猪木より馬場が好きだった。そして、球技以外の陸上も水泳も楽しい。冷静に考えると、マラソンなどは面白くなさそうに思えるけど、でもなぜか面白い。

 

スポーツ観戦はゲームとしての楽しさがもちろんある。しかし、スポーツ選手の「生き様」に感銘を覚えるということもあるように思う。多くのスポーツ選手は挫折感を乗り越え栄光をつかむ。自分自身に対する不安、ケガによる挫折、焦り。もうダメだ、もうあきらめよう、もうやめよう、でも彼らは、たゆまぬ努力で苦難を乗り越える。最近ホークスの小久保が2000本安打を達成した。小久保のコメントの中に「逆境の時こそ生き様のみせどころ」というものがあった。何度も大怪我に苦しんだ小久保の言葉。私は、ただただ頭が下がる思いだ。目標達成への強い思い、私は多くのスポーツ選手から勇気をもらう。

 

 また、スポーツ観戦に熱狂(以上)の感覚を覚えることがある。それは、サッカーのワールドカップ、野球のW  B  C、オリンピックなどだ。サッカーのワールドカップ予選では、日本代表のゴールシーンで大声をあげる自分がいる。それは「日本」という国を代表するチーム、個人を応援するときの感覚だ。日本という国を意識することは国粋主義者みたいで、知識人から非難されるかもしれない。でも私は、自分の生まれた地に誇りをもつことは自然な感情だと思う。

 

 先日、たまたまサンデル教授の番組を見る機会があった。サンデル教授はハーバード大学の先生で、正義とは何か公正とは何かといったテーマで自由な討論を展開していく。その時の話題は、オリンピック。一番最初は、猫ひろしがマラソン出場をめざし国籍を変えたことをどう思うか、あなたは猫ひろしがオリンピックに出場したら応援するか、ということからスタートした。スタジオのゲストにはオリンピック出場経験者、タレント、学者など、また、中継でアメリカや中国の学生が議論に参加した。

 

 多くは猫さんを応援するという人だったが、猫さんを素直に応援できない、という人も中にはいた。学者の人は、現在はタレント(才能)が行き来するグローバルな世界になっていて、元々国籍は絶対的なものだったけど、今は相対的なものになっている、新しい国のあり方、グローバルな協力のあり方を考えるきっかけになった、と話した。教授も、今や国境はそれほど重要なものではなく、才能はスポーツ選手にかかわらず、自由に移動していいはずだと話した。しかし、この新しい時代にあっても、私達はオリンピックのたびに自分の祖国の選手を応援する、なぜだろうか、と語ったのだ。

 

 私は番組の途中でシャワーを浴びて寝てしまったのだが、興味深い議論だと思った。オリンピックの熱狂、サッカーのワールドカップの熱狂、たしかに、コスモポリタン(国籍民族などにこだわらず、全世界を自国とみなして行動する人、世界主義者)が進んだ理想の人に思えるが、ワールドカップに熱狂する人は遅れた野蛮な人なのだろうか。う~ん、眠くなってきたのでここら辺でやめよう。でも私はやっぱり、「がんばれ、ニッポン!」

 

 (これは、2012年東京SR経営労務センター会報「飛翔」に

 寄稿したものです。)